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須藤元気のプロフィール

誕生

1978年3月8日東京都江東区生まれ

江東区立第四砂町小学校

子どもの頃は、いわゆる多動症で、教室の椅子にずっと座っていることがきつかった。椅子に座っていることは殆どの子供にとって簡単なことが、僕には困難だった。

江東区立第二南砂中学校

中学生になり、みんなと「違う」というだけで意味わからず先生達に殴られるようになり中三くらいからグレ始めて非行に走った。

関東第一高等学校

自分の居場所が見つからず、友達とつるんで笑っていても、その声が空虚にように思えることがあった。生きる場所を求めて、精神的に彷徨っていたように思う。


そんな僕が政治家になろうと思った最初のきっかけは高校1 年の夏、上野で警察に補導されたときだ。

僕を補導した女性警官が、僕の顔をまるで陶芸家が器の輪郭を見るかのように目を細めてこう言った。「あなたの目にはまだ光があるわ。逃してあげる。心を入れ替えなさい」とまるで二流映画にある強引な展開をつくるセリフのようであった。

ところが、その言葉が僕を呪縛からリリースしてくれた(ちなみに一緒に捕まった友達は態度が悪すぎたせいか警察署にしょっ引かれた)。

僕には、まだ可能性があるのか?

切り替えが早い僕はこの日を境に心を入れ替えた。

「みんながもっと弱者や困っている人に手を差し伸べて助けられたら、みんなが生きやすい世界になってくるのではないだろうか。おそらく政治が変わればいいのかもしれない」と考え始めた。

「なぜ、自分は足を踏み外したのか」そう思うと、社会のなかでの疎外感があったのだと思う。

自分は人と違うという理由だけで、学校という組織からのけ者にされていたが、それは自分だけではないはずである。他にも同じ思いをしている人はいるのではないか。本当に、この社会は、全ての人に開かれているだろうか。

学校という、誰にでも開かれているかのように見えているドアが、僕の目の前で閉ざされ暗闇の中で生きてきた。そんな僕の瞳に、光が残っているのか。それならば自分で世の中を変えればいいのかもしれない。

「そうだ、政治家になろう!」

JR 東海のCM の音楽が頭の中で始めた。単純であるのが僕の強みである。


政治家になるにはどうすればいいのかと思い、関連本を本屋で立ち読みしたり、弘兼憲史氏の政治傑作漫画「加治隆介の議」などを読んで士気を高めた。日本における公職選挙で必要とされる3 つの要素には三バンがないとなれないと言われる。三バンとは、「ジバン(地盤 )、カンバン( 看板 )、カバン( 鞄 )」だ。世襲政治家は票の地盤があるし、お金持ちはカバンがあるけど、僕には何もない。自分に作れるのは、「カンバン」、知名度しかないと思った。

拓殖短期大学

1996年全日本ジュニアレスリング(グレコローマンスタイル)優勝。

そして格闘技の道へ進み、運良く格闘技ブームがきて知名度を上げていった。
UFC-JAPAN 王者。

拓殖大学大学院地方政治行政研究科

28 歳の頃、格闘家を引退するときに「政治家になります」とまわりに言って引退した。

この社会を良くしたい、そういった漠然とした思いを具体化するために勉強しないといけないと思い、準備として拓殖大学大学院地方政治行政研究科へ入学した。政治家なると言って格闘家をやめたのと、僕のゼミの先生が産経新聞の政治部長であり保守の論客として知られた花岡信昭先生であったこともあり、参議院選がある3 年おきに自民党から出馬しないかと声をかけていただいた。同じレスリング出身である馳浩石川県知事(当時衆議院議員)からも同じようにお声がけ頂いた。

まだ20 代の若造の僕は「自民党に入ったとしても政治は変わりません」と生意気に理想主義を貫き、どこかのタイミングを探っていた(そんな失礼なことを言ったにも関わらず、馳先生は「格闘技振興議員連盟」を立ち上げる際に会長を引き受けてくれた)。

ダンスパフォーマンスユニット「WORLD ORDER」

そのタイミングを探っている間に、WORLD ORDER(ダンスパフォーマンスグループ)を作り、それが運良く世界的人気を得た(きっかけはマイクロソフトのワールドカンファレンスでのパフォマンスだったがNEW WORLD ORDER のメンバーと言われるビルゲイツがきっかけというのは皮肉である)。その
活動を10 年ほど続けながら、どうやって政治家になるかを考え続けていた。タレント枠で出馬するなら全国比例しかない。でも、どの党で出るべきかを考えあぐねていた。

 そんな折、立憲民主党が立ち上がり、「このタイミングだ」と思った。多くのタレント候補は、政党から声が掛かるというがが、僕はチャンスを求めて自ら伝手を探り始めた。

 僕の書道が同門であった海江田万里衆議院議員にご相談させてもらった。
そして、長妻あきら衆議院議員を紹介していただき、出馬したいと伝えたところ「党が立ち上がったばかりで選挙まで時間も人員も足りない。次の参議院まで待ったほうがいい」と言われた。結果、衆院選では立憲はリベラルの受け皿として議席を得て、比例名簿に名前を載せていた人達の多くが当選した。

僕ももし出馬していたら当選していた可能性はあったかもしれないが、前回の衆院選でその時に当選した比例の立憲の議員がそこそこ落選していたことを考えれば、僕が今、政治家で居られた保証はない。

参議院議員選挙当選

長妻さんと相談してから2 年後、参議院選挙がやってきた。立ち上がったばかりの立憲に比べれば勢いは落ちたものの、党スタッフの方からこう言われた。

「うちは比例11、取ると思うから絶対受かるよ」

全国比例は全国の有権者がその名前をかける。

全国比例で出馬が決まった僕は、党スタッフの言葉を鵜呑みにして公職選挙法で認められている電話をかけたり、ハガキを送るなどの選挙活動らしい活動はほとんどせず(向こうからハガキをやってくれたありがたい議員もいた)、これを機に日本一周をしよう!と友人たちと全国を回ることにした。

今思えばほんとアホだった。

格闘技でも絶対に勝てる試合などない。

そう思うと足元を掬われるのだ。

この党のスタッフが言った「絶対受かる」を責めるわけでなく、その言葉を鵜呑みにした僕が浅はかであり、後から厳しい戦いになるのだった。

選挙に先立ち、立憲から選挙に詳しい人達と有田芳生元参議院議員が応援サポートしてくれた。特に有田さんにはドライバーを紹介してくれたり、秘書を派遣してくれたり右も左も分からない僕を支えてくれて本当に助かった。みんながいなければ当選していたかわからないし、何よりいい空気で選挙を戦えた。悪い空気のチームは見ればわかるしチカラは発揮できなかっただろう。

スタートは東北方面へ向かい、最終的に北海道から沖縄まで回った。サイコロで行き場所を決めて「水曜どうでしょう」的なノリで選挙活動を行ったりほとんど旅行に近かった。


全ては無駄ではなかったが相当な時間を無駄にしたと思う。なぜならほとんど車移動であったために街頭演説などはやらず主にチラシだけを配っていた。

サイコロで「新潟県・佐渡島」が出たときは、行ったことがない場所だったのでワクワクしが、人がほとんど歩いていなく票にどれだけつながるかわからなかった。選挙で楽しい時間を過ごしていた僕は一旦休憩で東京に戻り実家の両親とご飯を食べた。

「お前、選挙中にそんなのんびりしていていいのかよ」と親父が言う。

「大丈夫だよ。絶対受かるから」と僕が言うと親父が怒った。

「おい元気、二度とその言葉を口にするな」

自分で言うのもアレだが、「勘のいい僕」はその一言で目覚めた。勝負事に絶対はないし、今のメンタルだと試合だと負けるのがわかるからだ。僕の父親は決して頭がいいタイプではないが物事の本質を見抜く力がある。刻すでに遅しだが、投票まで4日間ほど残っていた。その日から心を入れ替え、口角を常にあげているミッキーマウスのように笑顔全開元気いっぱいで必死に活動した。

開票当日。出口調査かわからないが午後にスタッフから連絡が来て、僕が受かるか受からないかギリギリのところだと言われた。「結果が出たら会見があるのでホテルの部屋でスタンバイしてください」と言われていたのでホテルの部屋の中でスマホとテレビと睨めっこしてた。そしてようやく、深夜3 時くらいに当確が出たと連絡がきた。寝落ちしていた僕は、まるで子供の頃、遠足で知らないホテルで朝起きて自分がどこにいるのか一瞬把握ができなかったような錯覚になった。スマホで自分が受かったのを確認すると「明日のジョー」の名シーンと僕は同じ姿になり呟いた。

「う、受かった…も、燃え尽きたよ」

立憲の比例は11 枠取れると聞いていたものが結果8 枠。僕以外のタレント候補は全滅した。後日、「ビリで何とか当選しました。ありがとうございます」と僕が応援してくれた人たちに言うと「議員バッチに金メダルも銀メダルもないですよ。おめでとうございます」と誰かが言ってくれたのを覚えている。

とにかく運が良かった。

こうやって僕の政治家人生が始まった。

初登院は

サイコロで非効率に全国をめぐり、なんとなく楽しく選挙を過ごしたのちに、ギリギリ当選して初登院日がやってきた。国会の正門(中央門)が開くのは「特別な日」に限られる。開会式に天皇陛下をお迎えする時、国賓かそれに準じる外国の要人を迎える時、そしてこの時のように衆参両院の選挙後に開かれる国会の召集時だ。

正門は午前8 時に開かれる。そして開門と同時に参拝一番乗りを目指して門から本殿までの約230 メートルをダッシュで走る西宮神社の「福男選」みたいになろうとする議員達がいる。なぜならニュースに取り上げられるからだ。

過去の「一番乗り」記録は2021 年、第49 回衆議院総選挙の阿部司衆議院議員だそうだ。

阿部議員は過去に午前1 時に初登院した議員がいると知り、確実に一番になれるよう午前0 時からスーツ姿で正門に立って待っていたという。開門するまでの8 時間何を思い待機していたのか気になるところだ。そして、この時の一番乗りは、朝の五時半に一緒に登院しようと約束していた音喜多駿議員と柳ケ瀬議員の二人だった(実際は、柳ケ瀬議員は抜け駆けして、五時に来ていたらしい。(笑))。

僕は逆に、メディア対策のためゆったりと午前9 時過ぎくらいに登院した。だいたい初登院日には、国会議事堂前に100名以上の報道陣が詰め寄り、議員らにインタビューのカメラが回り、僕みたいなタレント議員は特に注目はされる。

もともとタレント候補(プロレス界でいえばアントニオ猪木氏、大仁田厚氏)は人気商売から出てきた人たちなので票も取れやすかったが、2016年、元SPEED の今井絵理子参議院議員が出馬したあたりからタレント候補に対する風あたりは厳しくなっていた。2019年の参議院選挙を振り返ると、僕は何とか当選したものの、他のタレント候補はみんな落選してしまうくらい世間は厳しくなった。この参議院選挙で当選したタレント候補はある意味、僕しかいなかったこともあり初登員で失言を狙うには僕は恰好のカモだ。

大したネタではないが20 歳くらいからテレビに出る仕事をしていた僕は、これまで二桁は週刊誌にすっぱ抜かれてきた。初登院も、僕の失言を狙われている可能性は高いと踏んでいた。

孫子「兵法三十六計逃げるに如かず」

格闘家のときも負けそうなリスクがある時は無理せず逃げに徹して、勝てるチャンスを窺っていた。実は僕のK-1のデビュー戦は「打撃」を習い始めてからたったの「三ヶ月」である。元々レスリング出身でその後、ブラジリアン柔術を習い、基本的にグラップラー(組み技系)である。なぜそんな僕が打撃の試合に出たかというと初めて僕の階級(70kg 級)がTBS でテレビ放送するからと聞いたからだ。何とかして名前をあげなければと思っていた僕は「打撃」の試合だろうが民放に出なければいけないと思っていた。

すでにそこそこ知名度があったので出場権は得たが、同じ格闘技と言っても「組み技」と「打撃」は「バドミントン」と「テニス」くらい違う。そこで基本戦略は正面から戦わず逃げることにした。攻撃をくらいそうなリスクがある時は無理をせずに逃げ、相手が痺れを切らして突っ込んできた時にクルッと回転してバックブローを放った。余裕なんて一ミリもなかったがよく当たるようになり「バックブロー」が僕の代名詞になった(僕の中では「苦し紛れのバックブロー」と呼んでいた)。

こういう経験も踏まえて初登院というデビュー戦で派手に自分から勝とうとするのではなく安全策を取ることにした。門の前に行くと待機していた記者に囲まれたが言葉を選びながら答え早めに切り上げ門の中に入った。国会議事堂の入り口にある議員出席ボタン前でも大勢のカメラマンが待機しており「須藤元気」と書かれたボタンを押すポーズをして撮影を終え自室に入った。

何とかマリオブラザーズのステージをクリアした僕は、部屋の中に入ると会ったことのない企業や組織が送ってくれた胡蝶蘭の気高く白い花びらで部屋中が埋め尽くされていた。それは「映画、華麗なるギャッツビー」のワンシーンのようだった。

須藤元気物語